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新島津薩摩切子 「二色被せガラス タンブラー」

2020.07.03

 

~ひるねこ堂 スタッフブログをご覧頂き、ありがとうございます!~

 

お客様より買取致しました、新島津薩摩切子 「二色被せガラス タンブラー」。

 

一度は幻と化した薩摩切子。

 

半世紀が過ぎた現在では中根 櫻龜の手によって見事に復興されています。

 

きめ細かくカットされた断面を覗くと万華鏡のような世界が広がります。

 

本日は「新島津薩摩切子」ついてご紹介いたします。

 

 

 

 

 

 

 

 

■~ガラスのルーツ~■

 

ガラスの魅力は何といっても、その透明の美しさや脆さ、扱いやすい軽やかさにあります。

ガラスは既に奈良時代には用いられており、仏像の吹玉や遺跡から出土されたガラス壁と思われる残片などが確認されています。

ガラスが古代人の人々にいかに重宝されていたかが良く分かります。

 

日本では江戸時代末から明治の初めにかけて、本格的なガラス製造技術と各種の加飾の技法を多くヨーロッパから学び、産業としての基盤も工芸品としての地位も近代になって確立したと言えます。

ガラスは原料の珪石に石灰やソーダ等の媒剤を加え、1000度以上の窯で溶解し、着色する場合は金属酸化剤の中で成形方法と加飾法に大別され、様々な作品が作られています。

 

■~加飾法~■

 

加飾法は、器物の表面にさまざまな工芸技法を用いて装飾を加えることを言います。

技法も様々で、切子の特徴である「カット」は固定したグラインダーのように回転している機械に素材を移動させて彫る方法で、荒ずり、砥石かけ、磨きの各工程を経てできあがります。

模様は直線と曲線と限定された円にかぎられています。

代表的なものに江戸切子、薩摩切子があります。

 

薩摩切子は、江戸末期に薩摩藩で造られた切子ガラスです。

色被せガラスは薩摩切子を代表する作品、鉛を24~25%含むクリスタルガラスを使用した無色のガラス表面に色ガラスを微量溶着させ、「色被せガラス」としてにカットを施し、磨きあげた製品を「薩摩切子」として作品が出来上がります。

薩摩切子の特徴として、被せた色ガラスに厚みがあり、かつ色調が濃く、クリアガラスから色ガラスの間にできる グラデーション「ぼかし」が見事な一品としてブランドを確立しています。

 


 

『切子』の作品をお持ちの方は、ひるねこ堂へ是非ご相談下さい。

ひるねこ堂では『切子』の作品を高価買取致しております。

 

骨董品・美術品の高価買取、蔵整理・遺品整理なら「ひるねこ堂」にお任せ下さい。

 

三代目 徳田八十吉 「碧明燿彩壷」

2020.06.16

 

お客様より買取致しました、三代目徳田八十吉による作品「碧明燿彩壷」

 

九谷焼と言えば、金彩に赤絵などの色絵を施した「赤九谷」のイメージがあります。

 

そのイメージを打ち砕いたのが「三代目 徳田八十吉」

 

約70色を使い分け、色の濃淡(グラデーション)のみで作品を仕上げる技法

 

「彩釉」を生み出し、九谷焼の新たな表現を完成させました

 

本作は人間国宝認定後の金文字銘が確認できる作品になります

 

本日は徳田八十吉がこだわり続けた九谷焼のルーツについてご紹介いたします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

■~有田と並ぶ名産地に~■

 

磁器の名産地として名高い九谷焼、その歴史は江戸時代初期の1600年代に遡ります。

加賀の支藩だった大聖寺藩の初代藩主である前田利治(まえだ としはる)が、領内にある九谷の金山で磁鉱が発見されたのに着目し、金山で練金の役を務めていた後藤才次郎(ごとうさいじろう)に命じて佐賀県の有田で製陶を学ばせました。

その技術を導入し、九谷に窯を築いたのが始まりとされています。

 

九谷焼の特徴は、呉須という群青色の釉薬で線描きをし、「五彩」と呼ばれる、赤・黄・緑・紫・紺青の5色の絵の具を厚く盛り上げて塗る彩法です。

絵柄は山水、花鳥など絵画的で大胆な上絵付けがなされており、力強い印象を与えます。

 

■~九谷と伊万里~■

 

1730年頃に突然、九谷の窯は閉じられてしまいます。

理由は現在でも判明していませんが、この間に焼かれたものが後世、古九谷(こくたに)と呼ばれ、日本の色絵磁器の代表として独特の力強い様式美が高く評価されています。

余談にはなりますが、古九谷といわれているものが、実は佐賀の有田で作られたものではないかという説があります。

理由としては、有田では古九谷の陶片が大量に発見されたこが発端となり、現在も研究が続けられています。

 

古九谷の廃業の80年後、金沢で春日山窯が開かれ、再興九谷の時代に。

若杉窯、吉田屋窯、宮本屋窯、小野窯、松山窯が次々と開窯し、九谷焼の中でも、それぞれの特徴を活かした作品が作られました。

特に、吉田屋窯の青手古九谷の様式を再興し決して赤を使わない「青九谷」や、宮本屋窯の赤絵金彩の「赤九谷」などが顕著です。

 

明治時代に入ってからは、九谷庄三の彩色金襴手が有名となり、大量の九谷焼が海外へ輸出されました。

今日の九谷焼は、各時代の窯の上絵付けの作風を源流に、素地の窯元50軒以上と、以前にも増して活発な生涯が続けられています。

 


 

『徳田八十吉』の作品をお持ちの方は、ひるねこ堂へ是非ご相談下さい。

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仁清写 花生

2020.06.02

 

お客様より買取致しました、「仁清写 花生」

 

京焼独特の素地

 

そこに仁清写しを施し鮮やかに装飾された花入

 

大胆にも色濃く艶やかな黒釉を塗被せることで独自の雰囲気として仕上がっている作品です。

 

本日は野々村仁清が火付け役となって生まれた文化、京焼(仁清写し)についてご紹介いたします。

 

 

 

 

 

 

■~野々村仁清~■

 

「京焼」とは、同じ京都で茶の湯で使う茶碗を焼き続ける「楽焼」を除く、京都のやきものの総称。

作家の数だけ技法があるといわれるほど多種多様な技法で焼かれていますが、端正な成形や絵付け、口当たりのよさ、手にとった時の軽やかさは京焼の特徴。

中でも、あたたかみのある色絵は京焼ならでは。

というのも、有田や九谷の色絵磁器と違い、陶器に絵付けをしているからなのです。

あでやかな色彩とともに、土そのものの色や質感の活きた器。

このスタイルを完成させたのが、江戸時代初期に活躍した野々村仁清(ののむら にんせい) です。

 

土の素地に白の釉で化粧掛けし、繊細な色絵を施す。

当時流行した茶の湯の趣向「綺麗さび」に合うと、もてはされました。

また、大和絵や水墨画などからヒントを得て、取り入れたことでも評判を呼びます。

やがて、仁清の生み出す色絵は京焼の主流に。

以来、多くの作家が「仁清写し」を焼き続けています。

 

■~京焼のルーツ~■

 

地域によって土質にも違いがあり、勿論良い悪いもあります。

残念ながら京都にはいい陶士がありません。

しかし、高い美意識と工芸の伝統、目利きの茶人や教養も財力もある町衆に支えられ、江戸時代以降、多くの作家が登場しています。

仁清の指導でやきものを始めた尾形乾山(おがた けんざん)も、そのひとり。

兄は画家の尾形光琳(おがた こうりん)で、弟の絵付けを助け、兄弟で合作した作品も残しています。

 

「乾山」は号で、初めて窯を設けた鳴滝が京都の北西にあったことから名乗るようになったと一説にあります。

大胆な筆遣いと活き活きとした構図の食器は町人に喜ばれ、とくに銹絵は今も色褪せない魅力があります。

また、赤絵や金襴手の名手として知られる永楽保全(えいらく ほぜん) 。

民芸運動の提唱者でもある河井寛次郎(かわい かんじろう)なども京都の陶工です。

 

現在でも京焼は、脈々と伝わってきた先人の技に時代ごとの新たなアイデアを加え、その歴史を刻み続けています。

 


 

『仁清写し』の作品をお持ちの方は、ひるねこ堂へ是非ご相談下さい。

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保土田 丸十字家紋 「金襴手薩摩焼香炉」

2020.05.24

 

お客様より買取致しました、保土田 丸十字家紋 「金襴手薩摩焼香炉」 

 

香炉のあらゆる角度から隙なく描かれた風景図が拘りを感じる作品

 

人物の服装、表情まで細部にわたって描いているあたりに手間と時間をかけているのが分かります

 

豪快かつ繊細で印象強い金彩香炉です。

 

本日は、保土田 丸十字家紋 「金襴手人薩摩焼香炉」 ついてご紹介いたします。

 

 

 

 

 

 

■~偶然~■

 

国の伝統工芸品にも指定されている「薩摩焼」その歴史は約400年前に遡り、豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)の朝鮮出兵に同行した薩摩藩主の島津義弘(しまづ よしひろ)が、金海・朴平意・卞芳仲ら朝鮮の陶工を連れ帰ったことに始まります。

陶工を乗せた3隻の船は嵐にあい、別々の場所へ漂着。

それぞれの場所に窯が築かれことにより様々な民窯として4系統に分かれました。

 

薩摩焼は大きく分けて、気品ある芸術品の白薩摩と、黒薩摩の2種類。

竪野系は「白薩摩」と「黒薩摩」の両方を焼き、苗代川系と龍門寺系が「黒薩摩」を手がけます。

 

■~御用品~■

 

江戸時代には薩摩藩主の御用品として焼かれ、長年一般の目に触れることはなかった「白薩摩」。

白い陶土に透明釉をかけ、色絵や金襴手を施した豪華なやきものですが、乳白色の肌は華美というより柔和な美しさ。

細やかな透彫も見どころで、花瓶や茶器、香炉など、格調高い名品が多数作られました。

また、明治には「サツマウェア」として海外に輸出、「白薩摩」の作風の雰囲気から外国人に受けが良く、ブランドとして高い評価を受けていました。

 

一方、「黒薩摩」はその深く艶やかな色合いの黒釉が鹿児島の伝統工芸酒器を主に造られており、特徴である「三彩」と呼ばれる3色のかけ釉を使った独自の技法により庶民具として確立。

日々の日用道具として焼かれ、親しまれています。

 


 

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中里重利「唐津盃」

2020.04.23

 

お客様より買取致しました、中里重利「唐津盃」。

 

中里 重利(なかざと しげとし)は、佐賀県唐津市出身の陶芸家

 

父親は人間国宝保持者である12代中里無庵、そして兄である13代中里太郎右衛門

 

代々唐津焼の陶芸一家として生まれ、唐津焼の技法を継ぐ一人

 

中里重利は粉引技法を独自に生み出し、自身の作品の特色としている。

 

本日は、中里によって長きにわたり引き継がれてきた技法である「唐津焼」ついてご紹介いたします。

 

 

 

 

 

 

 

■~唐津焼のルーツ~■

 

実は現在も定かではない唐津焼の開窯時期。

長年の研究により、1580年代頃ではないかと考えられています。

16世紀末には朝鮮半島から「割竹式の登り窯」、「蹴ろくろ」などの最新技術とともに渡来した陶工により、劇的に発展。

桃山時代から江戸時代初期にかけて一大産地となり、日本海や瀬戸内海の雲運を利用して、琉球や東南アジアへも運ばれました。

当時、西日本で「からつもの」といえば「やきもの」を指した程、認知されていました。

茶陶としても愛され、千利休や古田織部など、一流の茶人に好まれていました。

 

しかし、江戸時代中期以降に有田の磁器に押され、衰退。

長い間、唐津の藩主が将軍家や大名に贈る献上唐津を作るにとどまっていましたが、昭和になって12代中里太郎右衛門(なかざと たろうえもん)が窯跡を調査、研究。

かつて朝鮮から伝わった「叩きづくり」の技法を再現。

さらに12代太郎右衛門が人間国宝に認定されると、唐津焼の人気は再熱。

現在は70以上の窯が多彩なやきものを焼いています。

 

■~装飾技法~■

 

陶器、そのよさは土そのものの味わいを楽しめること。

古唐津の頃には採取した土をそのままこねていたため、自然の「石はぜ」が魅力となっています。

土の持ち味をいっそう活かすのが釉です、「古唐津」の釉の原料は、土灰・藁灰・長石・鉄を含んだ岩石など4種類。

「黄唐津」と「青唐津」は雑木から作る土灰釉、「斑唐津」は藁灰釉(わらばいゆう)で、焼くと白濁します。

「奥高麗」「彫唐津」「絵唐津」「無地唐津」は石英やカオリンを含んだ長石釉。

「黒唐津」は鉄釉と、さまざまな釉を使い分けることで、豊かな表情がうまれました。

 

また古唐津は、「絵唐津」「三島唐津」「朝鮮唐津」など幅広い装飾技法でも知られ、それらはいずれも李朝中期のもの。

朝鮮陶工たちは最新技術とともに、独特な装飾を伝えたのです。

いずれも素材な風貌ですが、自由で大らかな魅力もたたえています。

 


 

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十二代 坂倉新兵衛 「萩茶碗」

2020.04.22

 

お客様より買取致しました、十二代 坂倉新兵衛 「萩茶碗」。

 

山口県の萩焼窯元、坂倉新兵衛窯の当主が代々襲名している陶芸作家。

 

十四代 坂倉新兵衛は山口県指定無形文化財萩焼の保持者でもある。

 

当代は十五代坂倉新兵衛正治。

 

萩焼茶碗は、高麗茶碗の美しさにならった気取らない素朴な茶陶は茶人達が愛した唯一無二の存在。

 

本日は、坂倉新兵衛が拘り続けた「萩焼」ついてご紹介いたします。

 

 

 

 

 

 

 

■~表情を愛でる~■

 

茶陶を焼く萩藩の御用窯がルーツの「萩焼」、御用窯とは、幕府や藩直営の窯のこと。

「やきもの戦争」とも呼ばれる文禄・慶長の役の際、藩主・毛利輝元が連れ帰った、朝鮮半島の陶工である李尺光(りしゅくこう)・李敬(りっけい)兄弟が築窯したのが起源。

材料は「大道土」という白い粘土、その性質に合わせて約1200度と低めの温度でじっくり焼くため、あまり焼き締まることがありません。

しかし釉は縮まるので、「貫入」ができます。

萩焼の醍醐味のひとつが、使い込むことで、変化する風合い。

ほっくりとした焼き上がりで給水性があるため、使ううちに貫入から水分がしみ込みます。

やがて色や肌合いが微妙に変わることを、茶の世界では「茶慣れ」や「雨漏」といいます。

ひとつの器を大切に、長く使えば使うほどしみが現れたりひびが目立つように、表情の変化は「萩の七化け」と呼ばれ、親しみをもたれています。

 

■~親しみと安らぎの器~■

 

茶の世界に「一楽、二萩、三唐津」という言葉があります。

楽焼も唐津焼も、江戸の茶人に愛された格の高い器、素材という例えがぴったりの、わびた佇まいの萩茶碗が、当時どれだけ愛されたか伝わる言葉です。

大切にしているのは、ほのかなぬくもりを感じさせる色合いと、土そのものの柔らかみ。

釉は透明な土灰釉(どばいゆう)と白くにごる白釉、藁灰釉(わらばいゆう)がほとんど。

模様はあまりつけず、絵付けなどの装飾もまず見られません、その代わり「粉引き」や「三島」といった釉がけの技法や、自由に両手を使える「蹴ろくろ」でデザインをプラスして変化を加える。

さらに「切高台」や「割高台」など、高台にも特徴があります。

幕末・明治の頃には、明治維新など政治的変化で藩の保護を失い、一時衰退。

しかし御用窯の流れを汲む萩焼の名門・三輪家の十代休雪などの努力で、「休雪白」などの釉かけの技法を開発し、大正から昭和にかけて復興。

新しい窯も増え、現在では100軒以上もの窯元で賑わっています。

 

■~偶然と景色~■

 

古くから茶人の抹茶茶碗の好みの順として、「一楽・二萩・三唐津」これはそのまま順位として表現とも言われています。

楽焼が真っ黒な釉薬を使うことが多いのに対して、萩焼の美しさは女性的な白化粧。

釉薬を薄くかかっているだけなので、多数ある小さな穴から水分がしみ込んで次第に味わい深くなる、「萩七化け」が生じます。

それらの要素により、作品毎に違った表現をみせる茶碗は茶人にとっての唯一無二の存在となります。

 


 

『坂倉新兵衛 』の作品をお持ちの方は、ひるねこ堂へ是非ご相談下さい。

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藤原雄「備前筒花生」

2020.04.15

 

お客様より買取致しました、備前焼の重要無形文化財の保持者である藤原雄の作品、「備前筒花生」。

 

人間国宝である藤原 雄(ふじわら ゆう)の作品。

 

生まれつき視力が悪く、左目は視力0、右目の視力も著しく悪い、そんな身体的障害をも乗り越えた陶芸家。

 

父の支えもあって備前焼を極め続け、備前焼の頂点といっても過言ではない重要無形文化財として認められ、昭和に備前焼を広めた人物でもあります。

 

備前の特徴でもある、釉薬をかけない焼き締め。

 

堅く締まった赤い土肌に炎が偶然に描き出す窯変(ようへん)の美しさが出ています。

 

本日は、藤原 雄が極めるまでに追及した「備前焼」についてご紹介いたします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

■~ルーツ~■

始りは、平安時代に作られた須恵器をルーツとする、歴史あるやきもの、備前焼。

十分に酸素を加えて焼く酸化焔焼成(燃料が完全燃焼するだけの十分な酸素がある状態の焼き方)

によって堅く焼き締められた赤みの強い土の質感は、地味で飾り気はありませんが、日本人の好む素材な佇まいが特徴です。

 

備前焼の枯れた味わいがもてはやされるようになったのは、室町時代の終わり頃。

茶人の村田珠光(むらた じゅこう)がそれまでの武家好みの茶道から、わびさびに重点を置いた「草庵茶」を堤唱した流れによります。

以後、江戸時代初期頃まで、数々の茶陶の名品が作られるように。

その後、茶道の衰退とともに備前焼は低迷の時代を迎えますが、昭和に入って金重陶陽(かねしげ とうよう)らが、桃山時代の「古備前」を復興。

今では500人以上の作家を抱えるやきものの里となって繁栄しました。

 

■~窯変の面白さ~■

 

備前の特徴でもある茶褐色の地肌は、土に含まれる鉄瓶によるもの。

地元の田んぼの底からとれる「田土」と呼ばれる軟らかくて粒子が細かく、粘性に富んでいる土を冬の間に掘り出し、2年ほど風雪にさらした後、山土と黒土と混ぜ合わせて使用。

これを長時間焼き締めることで、特有の土味が生まれます。

窯の中の状況によって、器の素地や釉薬に「窯変」が起きて、表情に変化が現れます。

「窯変」とは釉薬の組成や含まれる金属酸化物の酸化と還元の強弱など熟成方法の違いで生まれる器肌の変化のこと。

同じ窯で同じときに焼いても、窯の中で置かれた場所の違いで、炎の当たり方や灰の降りかかり具合が変わってくるため、ひとつとして同じ模様にはなりません。

 

■~自然の美~■

 

六古窯でも多くの壷が出土して美術館で所蔵されていますが、もともと江戸時代までは生活に欠かせない実用品でした。

その鑑賞のポイントとされるのは、産地、時代、形、釉がヒントとなり、最も大切なのが安定した姿かどうか。

六古窯のような素材なものだと、自然釉のかかり方も大きな見どころになります。

天然の土を焼き締めただけの自然美の追求、これが備前焼きの完成系となります。

 


 

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刀装具「龍虎文鍔」・「後藤光邦 縁頭」・「獅子狛犬目貫」・「後藤伝乗 小柄」

2020.04.08

 

お客様より買取致しました、刀装具「龍虎文鍔」・「後藤光邦 縁頭」・「獅子狛犬目貫」・「後藤伝乗 小柄」。

 

本日は「刀装具」ついてご紹介いたします。

 

それぞれ『刀』から分離させた各種部位。

 

刀の持ち手なる柄、柄の縁と末端にあたる頭。

 

持ちてを守るための鍔、刀が抜け落ちぬよう細工された目貫。

 

それぞれ金工師による実用性と装飾性の両方を兼ね揃えた造形物とした刀装具。

 

現在では、当時物とした大変貴重なものとして扱われております。

 

 

 

 

 

 

 

■~拵え~■

 

刀剣類を携帯するために収める外装を刀装と言います。

日本刀などの場合、刀装は「拵」(こしらえ)とした総称になります。

そして、拵に使われている各部位、道具類を「刀装具」とした呼称で呼ばれています。

 

 

■~刀装具の種類~■

 

刀装具にはそれぞれに部位があります、柄(つか)、鍔(つば)、鎺(はばき)、目貫(めぬき)、縁頭(ふちがしら)、そして鞘(さや)。

道具類については、笄(こうがい)、小柄(こづか)、下緒(さげお)など。

 

刀装具は、刀身を日本刀として活用するためには必然的に必要となる刀装。

刀身を振るうための持ち手となる柄。

刀を振るったさいに刀身が抜け落ちぬよう工夫された目貫に鎺。

刃から握りこぶしを保護するため、防具として考えられた鍔。

そして刃を収め、常時身に着け持ち運びやすいようにと考えられた鞘。

刀装具には実用性、装飾面、地位や権力を示すための道具としてなど、時代や地域によって様々な装飾・形状など、種類があります。

 

■~後藤家~■

 

室町時代には刀剣も殺傷道具としてではなく、一種のアクセサリーのように装飾性を持たせ、奇抜なものなどが造られ始めており、日本刀・刀装具は慶長年間「本阿弥家」(ほんあみけ)によって鑑定が行なわれ、、光室が証明とした「折紙」(おりがみ)が発行されていました。

小道具類においては後藤家による鑑定をおこなっており、四代に至っては銘を刻み残しています。

五代より後藤家も、本阿弥家同様に鑑定折紙を発行するようになりました。

後藤家、本阿弥家が発行した折紙のある刀装具は金工芸とした作品としてお墨付きとなり、

それらを用いた拵は非常に価値あるものとして扱われ、上流階級の人間が所持することを許されていました。

 


 

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特別保存刀剣「中反り棒樋刀身彫 銘:伊豆守大道」

2020.03.31

 

お客様より買取致しました、 特別保存刀剣「中反り棒樋刀身彫 銘:伊豆守大道」

 

本日は「 特別保存刀剣「中反り棒樋刀身彫 銘:伊豆守大道」」ついてご紹介いたします。

 

全長にして96㎝、元幅32㎝の刃渡り66㎝、太く重厚な刀身になります

 

財団法人日本美術刀剣保存協会より「特別保存刀剣」として認定を受けた刀剣

 

胴から真っすぐと伸びた刀身、そして刀身にそって伸びた樋彫が特徴の刀

 

保存状態が良く、錆・欠けなども見受けられない大変貴重な刀です。

 

 

 

 

 

 

 

■~日本刀~■

 

日本刀は名称にも含まれているよう、日本古来の文化により発展した武器。

西洋剣と比較して、大きな違いは片刃か両刃。

西洋剣はソードやレイピアなど刃が薄く、軽いため片手でも扱えるような直剣が多く、

叩き切る・突くなどといったあらゆる攻撃をするための動作を想定して造られています。

 

日本刀は片刃で重く、細長い反りをもたせたものがほとんど。

柄が長く、両手でしっかりと握ることを前提とされており、切ることに特化した剣(刀)。

片手剣に比べて、両手持ちの刀は長剣であるがために取り回しが悪いなどの欠点があります。しかし、刃渡り40㎝程の脇差(短刀)を同時に所持することで状況に応じて攻防使い分けをする。

脇差の鞘に収納されている小柄(こづか)と呼ばれる穂先(刃)の付いた小型ナイフのような形状の小刀が収められています。

小柄は、甲冑など鎧の隙間から急所を捉えるための道具ともされており、いかなる戦況にも対応できるようにと考えられ日本固有の武器。

 

しかし、時代背景の中で殺傷力のある武器となるものは、法律に基づき日本から除外されるため、日本刀を含めた武具、甲冑を破棄すことを余儀なくされました。

そこで、日本刀を後世に残すために「美術品」とした登録制度を設け、刀・拵え、鍔などの刀装具は「美術品」として扱われるようになりました。

 

■~登録制度~■

 

日本では刀のほとんどを「日本刀」とした総称で呼ばれていますが、

実際には、模造刀、復刻刀、美術刀など、様々な種類、名称があります。

 

真に「日本刀」と呼ばれる物は、文化庁において登録制度を設けており、

日本古来の製法に則って作られているか?というところを定義として一つあります。

定義というのが、刀身の芯にあたる部位が「鉄」であること、そして芯を覆うように「鋼」を用いられているか。

そして、姿、刃文、繰り返し鍛錬をし、焼き入れを施しをされているものであるか。

勿論、それだけではありませんが前提として上記の定義を設けられています。

これらの条件を満たしたものが「日本刀」を「美術品」として認められたものになります。

 

■~保存刀剣~■

 

「美術品」として認められた刀剣。

その中でも特に状態が良いもの、姿、鍛え、刃文、彫り物等に美しいものなどは「日本美術刀剣保存協会」より鑑定を通すことによって評価を頂ける場合があります。

 

刀の時代背景、刀身の銘や形状、状態など。

総合的にみて「美術性のより高いもの」としてみれるものはそれぞれの名目で認定を受けられます。

「保存刀剣」・「特別保存刀剣」・「重要刀剣」・「特別重要刀剣」、最も良いとされるのが「特別重要刀剣」となります。

特別重要の刀は一般の方で所持していることは極めて少なく、基本的には保存刀剣、あるいは特別保存となってくるのではないかと思います。

しかし、保存刀剣以上の鑑定書のあるものであれば、いずれも至高の刀として認められたものになりますので大変貴重なものにはかわりはありません。

 


 

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清風与平 「染付山水画花瓶」

2020.03.20

 

お客様より買取致しました、清風与平 「染付山水画花瓶」

 

本日は「清風与平」ついてご紹介いたします。

 

清風与平と言えばやはえい独特の画力にあるものと思います

 

一見、柄のような文様に見える作品

 

しかし、間近でみると人物など細部まで書き込みをした風景に人物画

 

あらゆる角度で描かれた染付絵に手間と時間を費やしているのがみてとれる作品です。

 

 

 

 

 

 

■~道八に師事~■

 

清風与平(せいふう よへい)は、享和より続く家系。

初代清風与平が師事した人物は、京焼の名手として知られる「仁阿弥道八(高橋道八)」である。

そのため、染付・朝鮮写・白磁・色絵などの焼成に長けていました。

 

道八から学んだ技術と与平の感性と着眼点からみた作品は、

陶磁器に絵画のような画法を意図的に取り入れた染付の作品、当時では独特な表現として異色ともみられる作品。

それが後に4代まで続くこととなる清風与平の持っていた独自の魅力とそれらの再現を可能とした技術でした。

 

■~帝室技芸員~■

 

清風家は2代、3代と着実に陶芸家として名声を積み上げてきました、

特に3代名は2代の妹であるくまと結婚、婿養子となった人物ですが、

田能村直入に師事していた経験を生かす形で独自の技法を見出すことに成功しています。

2代が若くして亡くなり、すぐに襲名しており、そこから15年後の42歳と若くして業界初の帝室技芸員として任命されます。

3代目清風与平として業界では知らぬ者はいない程に名声を得ることとなり、

作品を求める者が後を絶たたない程の名工となりました。

 

■~画力と陶芸の技法~■

 

清風与平の作風は画法を取り入れたような作風、陶磁器に余白を残さない程の描きこみ、

細部まで描かれた作品は皆が目を引き留める程の画力と陶芸の技法が交じり合った独自の魅力を持った作品です。

現在でも三代は帝室技芸員として任命された経由もあって作家として特に高い評価を持っています。

 

実子である次男が4代を継ぎましたが、平成2年に没、

現在では代も途切れてしまい、残念ながら新たに清風与平とした作品が誕生することはありません。

 


 

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