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三代目 徳田八十吉 「碧明燿彩壷」

2020.06.16

 

お客様より買取致しました、三代目徳田八十吉による作品「碧明燿彩壷」

 

九谷焼と言えば、金彩に赤絵などの色絵を施した「赤九谷」のイメージがあります。

 

そのイメージを打ち砕いたのが「三代目 徳田八十吉」

 

約70色を使い分け、色の濃淡(グラデーション)のみで作品を仕上げる技法

 

「彩釉」を生み出し、九谷焼の新たな表現を完成させました

 

本作は人間国宝認定後の金文字銘が確認できる作品になります

 

本日は徳田八十吉がこだわり続けた九谷焼のルーツについてご紹介いたします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

■~有田と並ぶ名産地に~■

 

磁器の名産地として名高い九谷焼、その歴史は江戸時代初期の1600年代に遡ります。

加賀の支藩だった大聖寺藩の初代藩主である前田利治(まえだ としはる)が、領内にある九谷の金山で磁鉱が発見されたのに着目し、金山で練金の役を務めていた後藤才次郎(ごとうさいじろう)に命じて佐賀県の有田で製陶を学ばせました。

その技術を導入し、九谷に窯を築いたのが始まりとされています。

 

九谷焼の特徴は、呉須という群青色の釉薬で線描きをし、「五彩」と呼ばれる、赤・黄・緑・紫・紺青の5色の絵の具を厚く盛り上げて塗る彩法です。

絵柄は山水、花鳥など絵画的で大胆な上絵付けがなされており、力強い印象を与えます。

 

■~九谷と伊万里~■

 

1730年頃に突然、九谷の窯は閉じられてしまいます。

理由は現在でも判明していませんが、この間に焼かれたものが後世、古九谷(こくたに)と呼ばれ、日本の色絵磁器の代表として独特の力強い様式美が高く評価されています。

余談にはなりますが、古九谷といわれているものが、実は佐賀の有田で作られたものではないかという説があります。

理由としては、有田では古九谷の陶片が大量に発見されたこが発端となり、現在も研究が続けられています。

 

古九谷の廃業の80年後、金沢で春日山窯が開かれ、再興九谷の時代に。

若杉窯、吉田屋窯、宮本屋窯、小野窯、松山窯が次々と開窯し、九谷焼の中でも、それぞれの特徴を活かした作品が作られました。

特に、吉田屋窯の青手古九谷の様式を再興し決して赤を使わない「青九谷」や、宮本屋窯の赤絵金彩の「赤九谷」などが顕著です。

 

明治時代に入ってからは、九谷庄三の彩色金襴手が有名となり、大量の九谷焼が海外へ輸出されました。

今日の九谷焼は、各時代の窯の上絵付けの作風を源流に、素地の窯元50軒以上と、以前にも増して活発な生涯が続けられています。

 


 

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