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荻原守衛

1879年 長野県で生まれる

1896年 心臓を病む。夜学会に入会する

1897年 相馬黒光の家で初めて油絵を見る

1898年 研成義塾が創立され参加する

1899年 初めて井口喜源治らと上京し、巌本善治を訪問する。画家になろうと志し巌本善治氏を頼って明治女学校の校地内に住む。画塾不同舎に入り小山正太郎に学ぶ。

1900年 明治女学校校地内の林の中に守衛専用の小舎を建て、深山軒と名付ける

1901年 アメリカ・ニューヨークへ渡る。アート・スチューデンツ・リーグに入学する

1902年 チェイス・スクールに転校し、ロバート・ヘンライに学ぶ

1903年 フランスへ渡り、パリで中村不折に会う。アカデミー・ジュリアンに通学する

1904年 サロン・ナショナル・デ・ボザールでロダンの『考える人』を見て深く感動する

彫刻家を志すようになる

1906年 アカデミー・ジュリアンの彫刻部に入る。碌山の号を用いはじめる

1907年 帰国する

1908年 新宿にアトリエを建てる

1910年 柳敬助の画室を設計監督する。4月20日逝去

 

荻原守衛は、またの名を荻原碌山と言って明治期を代表する素晴らしい彫刻作家として知られています。

5人兄弟の中の末っ子として生まれた荻原守衛は、非常に病弱であり、読書や絵画などを趣味として日々を過ごしていたという事です。そして、そんな日々を過ごしていた荻原守衛に転機が訪れるのは、17歳の時だったと言われています。それが、通りがかった女性から声をかけられた事でした。

 

相馬黒光という、郷里の先輩、相馬愛蔵の新妻で3歳年上の女性だったそうです。その出会いから、芸術の知識や才能があった彼女に強く影響された荻原守衛は、洋画家の世界を学ぼうと芸術への道を切り開いていったのです。

本格的に絵画を学ぶためにニューヨークへ渡米。アルバイトを掛け持ちしながら洋画を学んでいたそうです。しかし、骨格などを研究していた荻原守衛。パリに赴きそこでオーギュスト・ロダンの「考える人」に大きな衝撃を受けます。

 

この出会いによって、次は彫刻家を目指すという、大胆な方向転換をしたのです。フランスを離れ、イタリア、ギリシャ、エジプトを経て1908年帰国。その後は、独立をして彫刻家として努力を重ねます

充実した量塊に豊かな生命感をもつみずみずしい造形は、高村光太郎とともに、日本の彫刻に初めて本格的な近代の扉を開きました。荻原守衛の代表作である、数多くの作品を生み出しながらも、その精神力のぶつけ方だけに体を壊してしまい、1910年にお亡くなりになります。その時の作品、第四回文展に「女」が出品されました。人間の魂を全て芸術に捧げた、唯一無二の彫刻家だったのです。

 

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