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五姓田芳柳

1864年 下総国猿島郡沓掛村(現茨城県坂東市沓掛)に生まれる

1878年 上京し五姓田義松(初世芳柳の二男)に師事する

1880年 五姓田義松が渡仏後はワーグマンに師事、続いてサン・ジャパンニ、カッペレッティなどに師事

1881年 第2回内国勧業博覧会に「飾馬図」を出品する

1884年 初代芳柳と北陸旅行

1890年 第3回内国勧業博覧会において「鷺沼平九郎大蛇ヲ屠ル図」「羅漢図」で褒状を受ける

1900年 パリの万国博に「猿曳図」を出品、褒状を受ける

1910年 日英博覧会のために渡英してジオラマ「日本古代より現代に至る風俗変遷図」を描き、名誉賞状を受ける

1943年 80歳で死去

 

五姓田芳柳は、肖像画、風景画、歴史画、風俗画などに和洋両画法を見事に融合させ、明治・大正・昭和の長きにわたって幅広い画業を展開し、数多くの秀作を残しています。

洋画家であり、浮世絵師でもあった初代五姓田芳柳 の養嗣子となって、英国人画家ワーグマン、サンジョバンニ、カベレッチらの影響を受け、日本洋画界に名を残しました。

 

上京後、初代五姓田芳柳の門に入り、息子義松の弟子になって当時まだ普及していなかった洋画を学びました。

洋画と日本画、また、それを融合させて幅の広い画を展開しましたが、特に水彩画においては、草分け的な存在で、1884年に描いた「新潟 信濃川」は丁寧な写真のように見たままを写実的に描いています。

この絵は、二世五姓田芳柳の世間に知られている中で最初の水彩画となっています。

 

1889年に明治美術会の創立会員となり、同会解散後の1902年には、巴会の結成に参加しその創立会員となります。

 

明治神宮外苑にある「聖徳記念絵画館」の壁画の制作の中心リーダーを担いました。ここには、明治天皇の業績を扱った著名画家による絵が掲げられているのですが、彼はすべての下絵を描いています。

風景や建物を現地に赴いて見て、人物の服装まで歴史学者に意見を聞き、精巧に修正していきました。 第2回内国勧業博覧会、第3回と出品し、1925年以降は明治美術会、各国博覧会にも出品、文展以降は作品を出品せずに種々の以来に応じて歴史画や風俗画を描いています。

明治時代を回顧したものが主なもので、聖徳記念絵画館考証図、明治天皇御事績画、笠置山、吉野山などがあります。

日本赤十字社特別社員で、同社の依頼のものが多数ありました。

普通、息子に二世を継がせると思うのですが、彼の場合は、養子で入婿だったのにとても不思議なのです。きっと、彼の才能に初代五姓田芳柳が魅せられたのでしょう。

 

面白い絵があります。五姓田芳柳の「上杉景勝一笑図」なのですが、上杉謙信のあと、上杉家17代目となって、とにかく厳格で無口であったとされていますが、その景勝が、生涯に一度だけ笑ったことがあるという逸話が残されています。飼っている猿が、景勝が脱いだ帽子をかぶって頭を下げたりして振りを真似していたので、景勝も我慢できずに笑ってしまったのです。 そんな場面を写実的に描いたのが、この作品です。

 

1931年には、上野公園にある美術協会で350点にものぼる作品を展示する個展を開いた後、引退しています。またこの際、20歳で受け継いだ芳柳の号を先代の霊前で返還しています。

 

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