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高価買取作家

高村光太郎

1883年 生まれる
1898年 東京美術学校本科彫刻科に進む
1902年 東京美術学校彫刻科を卒業し、研究科に残る
1904年 白馬会曙町研究所に通いデッサンなどを学ぶ
1906年 岩村透の勧めで彫刻を学ぶため留学する
1909年 帰国する
1912年 ヒュウザン会を結成する
1914年 詩集『道程』出版し、長沼智恵子と結婚する
1938年 妻・智恵子が亡くなる
1941年 詩集『智恵子抄』を出版する
1947年 帝国芸術院会員に推されるが辞退する
1953年 日本芸術院第二部会員に推されるが辞退する
1956年 結核のため逝去

日本を代表する彫刻家であり、画家でもあったが、今日にあって『道程』、『智恵子抄』等の詩集が著名で、教科書にも多く作品が掲載されており、日本文学史上、近現代を代表する詩人として位置づけられる。

高村光太郎は1897年9月、東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)彫刻科に入学、
文学にも関心を寄せ、在学中に与謝野鉄幹の新詩社の同人となり『明星』に寄稿しました。

1902年に彫刻科を卒業し、研究科に進みますが、1905年に西洋画科に移りました。
1906年より留学に出て、ニューヨークに1年間、その後ロンドンに1年間、パリに9ヶ月滞在し、1909年に帰国します。そして1912年、駒込にアトリエを建てました。

この年、岸田劉生らと結成した第一回ヒュウザン会展に油絵を出品します。
1938年に智恵子と死別し、その後、1941年に詩集『智恵子抄』を出版しました。1945年4月の空襲によりアトリエとともに多くの彫刻やデッサンが焼失します。

同年5月、岩手県花巻町(現在の花巻市)の宮沢清六方に疎開しました(宮沢清六は宮沢賢治の弟で、その家は賢治の実家であった)。
しかし、同年8月には宮沢家も空襲で被災しますが、辛うじて助かります。終戦後の同年10月、花巻郊外の稗貫郡太田村山口(現在は花巻市)に粗末な小屋を建てて移り住み、ここで7年間独居自炊の生活を送る。

これは戦争中に多くの戦争協力詩を作ったことへの自省の念から出た行動でありました。
この小屋は現在も「高村山荘」として保存公開され、近隣には「高村記念館」があります。

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