高価買取作家
岡本太郎
1911年 神奈川県川崎市高津区で生まれる
1929年 東京美術学校洋画科に入学する
1930年 渡欧。ルーヴル美術館でセザンヌの作品を見る
1931年 パリ郊外セーヌ県ショワジー・ル・ロワのリセで学ぶ
1941年 二科会「傷ましき腕」「コントルポアン」など4点出品 二科賞を受賞する
1948年 花田清輝・埴谷雄高らと「夜の会」を結成する
1952年 渡欧 パリとニューヨークで個展を開く
1954年 アトリエを青山に移し「現代芸術研究所」を設立する
1956年 旧東京都庁舎に「日の壁」「月の壁」など11の陶板レリーフを制作する
1959年 東京都庁舎の壁画がフランスの雑誌「今日の建築」第1回国際建築絵画大賞を受賞する
1961年 スキー中に骨折に彫刻「あし」を制作
1964年 東京オリンピックの参加メダルの表側をデザインする
1970年 大阪の日本万国博覧会のテーマ展示館「太陽の塔」が完成する
1974年 NHK放送センター・ロビーにレリーフ壁画「天に舞う」を制作する
1985年 国際科学技術博覧会のシンボルモニュメント「未来を視る」を制作する
1994年 世界祝祭博覧会のシンボルモニュメント「であい」を制作する
1996年 84歳で死去
岡本太郎は神奈川県出身の日本の芸術家で、洋画家、工芸家、彫刻家として数多くの作品を残しています。
芸術一家に生まれ、一般的な躾を全く受けずに育った太郎は、少年期より既存概念にとらわれる事がなく、人間としての自由や権利を阻害する者、権威を振りかざす者、かさにかかって押さえつけようとする者には、徹底的に反抗したと言われています。
この反逆児ぶりは生涯貫いており、またそれが創作への情熱にもなりました。
著書「今日の芸術」の中で、「うまくあってはならない。きれいであってはならない。ここちよくあってはならない。」と宣言しています。
これは手先の巧さ、美しさ、心地よさは、芸術の本質とは全く関係がなく、むしろいやったらしさや不快感を含め、見る者を激しく引きつけ圧倒する事こそが真の芸術と説いています。
父親の仕事の関係で、東京美術学校を休学し、フランスに渡ります。フランスでは、フランス語を学び、「何のために画を描くのか」という疑問に対する答えを見つけるため、絵とは関係のない哲学、心理学、民俗学などを学びました。
しかし、芸術に対しての迷いは消える事はなく、完全にどうしたら良いのか分からなくなってきた頃、たまたま立ち寄った画廊でピカソの作品を目にして強い衝撃を受け、ピカソを越える芸術家になる事を目標に掲げ、本格的に芸術活動を行うようになります。
自らの作品をガラス越しで展示されるのを非常に嫌い、そのままの状態で鑑賞してもらうことを善しとする考えでした。それを表す逸話として、国立近代美術館で展示中だった「コントルポアン」を傷つけられたことがあり、それ以降関係者がガラス越しでの展示を提案すると太郎は激怒して、「傷がつけば、俺が自ら直してやる」とまで言ってのけたといいます。
渋谷駅の駅ビルのような位置づけである渋谷マークシティという、渋谷駅からの電車の微振動や乗降者数の多さ、そして気温・湿度の激しい変化に晒されるなどとても設置場所としては不向きなところに展示される「明日の神話」も、以上の理由で何の防護措置も施されずに展示されることになりました。
「ピカソを超える」と誓った岡本太郎ならではのエネルギッシュな作品が認められ、大阪万国博覧会のシンボル・タワー「太陽の塔」や東京オリンピック、札幌オリンピックの記念メダルのデザインなど大きな仕事の依頼を受けるようになり、日本国内にもたくさんのモニュメントが設置されるまでになりました。こうして岡本太郎は今までの芸術界の常識を打ち破った芸術家として現在でも世界中で高く評価されています。
ひるねこ堂では岡本太郎の作品を高価買取しております。
関西圏(兵庫・大阪・京都・奈良・和歌山)を中心に、全国各地(北海道・東北地方・関東地方・中部地方・中国地方・近畿地方・四国地方・九州地方)のご依頼に対応しております。
骨董品・美術品の売却なら「ひるねこ堂」にお任せ下さい。