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安井曾太郎

1888年 京都中京区で生まれる
1904年 関西美術院に入所する 浅井忠・鹿子木孟郎らに師事
1907年 津田青楓とともに渡欧 アカデミー・ジュリアンに学ぶ
1914年 帰国
1935年 帝国美術院の会員になる
1936年 石井柏亭・有島生馬・山下新太郎らと一水会を結成する
1944年 東京美術学校の教授になる
1952年 文化勲章を受章する
1955年 67歳で死去

 

安井曾太郎は、大正から昭和期に活躍した洋画家で、日本の風土に立脚した独自の作風を求め、

伸びやかな筆致、鮮やかな色彩、シンプルで落ち着きのある構図を確立させ、梅原龍三郎とともに並び称されました。
肖像画の名手と謳われ、「安井様式」と言われるリアリズムを完成させ、数多くの人々に強い影響を与え続けました。
京都の木綿問屋に生まれ、商人という立場であることで、商業学校への入学を余儀なくさせられます。

しかし、絵を描くことを非常に好んでいた安井曾太郎だけに、この日々は苦痛でしかありませんでした。

そして、親の反対を押し切り、商業学校を中退し、絵画の道へと進むこととなったのです。

後ろ盾の無くなくなった安井曾太郎は、必至で絵画の道を極めるために勉学に励みます。

同学を中退した翌年には、聖護院洋画研究所へ入所し、本格的に絵画の便用へと身を転じていくこととなるのです。

 

才能を徐々に発揮していった安井曾太郎は、実力者となっていきます。

そして、1907年には、先輩の画家である津田青楓と共に渡欧します。全く新しい美術様式を手に入れるために、

何と今まで自ら書き溜めていた作品を全て燃やしてしまっているほどでした。フランスで絵画の勉強をしながら、

ヨーロッパを幾度となく旅し、数々の刺激を受けます。セザンヌ回顧展に遭遇して、驚き、心酔してその画法の研究に没頭します。

その構図上の組立や身体の立体感などに腐心し、新しいリアリズムを体得していったのです。

安井は、セザンヌの本質を理解し、その影響による作品を描いた最初の日本人画家ともいえます。

その安井を評して、「写実の画家」とか「素描の画家」とよく言われますが、

そのリアリズムの本質には、徹底的なデッサンの積み重ねがありましたが、自らの体調悪化、

不安定な情勢などに圧迫され思うような作品を描くことができない日々が続きます。
しかし、1930年に発表した「婦人像」で起死回生を見せます。自らが思い描くシュールレアリスムを日本的解釈で築き上げ、

結果的に昭和期を代表する大画家となっていくのです。この1930年代に石原求龍堂から木版画を発表、

1931年から安井曾太郎版画頒布会から全12図の『安井曾太郎版画集』を出しました。

 

東京美術学校教授や文化勲章受賞など、華々しい経歴を持ち合わせ、画家としての成功を収めることとなります。

自らの生まれた境遇を捨て、芸術の道を選び成功を勝ち取った安井曾太郎。

彼の功績は、多くの人々に感動を与え、創作という刺激を与え続けたのです。

 

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