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村山槐多

1896年 愛知県岡崎市で生まれる
1909年 京都教育大学附属京都小中学校を卒業する 京都府立洛北高等学校に入学する
1914年 京都府立第一中学校を卒業し上京する 日本美術院研究生 第1回二科展にて「庭園の少女」が入賞
1915年 第2回日本美術院展覧会にて「カンナと少女」が院賞を受賞する
1917年 第4回日本美術院展覧会にて「乞食と女」が院賞を受賞する
1918年 第4回日本美術院試作展覧会にて「樹木」「自画像」「九十九里の浜」「男の習作」が奨励賞を受賞する
1919年 第5回日本美術院試作展覧会にて「松の郡」「自画像」「松と家」「大島風景」「某侯爵邸遠望」が美術院賞乙賞を受賞する
1919年 22歳で死去

 

洋画家・村山槐多の作品は、原色を多用した、けばけばしいとさえいえる筆致を特徴としていて、

女性像や風景をモチーフとして好みました。

若くで亡くなっていて、実質的に画家として活動した期間が約5年足らずと短期間のため、

絶対的な作品数は少なく、現在残されている槐多の作品にはかなりの高値が付いています。

 

青春時代は誰もが不安を感じ、熱っぽくなりがちなものですが、人一倍の熱量と不安定さが村山槐多の一つの魅力と言えるでしょう。

村上の残した作品の多くは決して器用とは言えないものばかりですが、見る者を惹きつけてやまない強烈な印象を与えます。
村山槐多は子供の頃から癇癪持ちと言われていました。

極端に熱しやすく冷めやすい気性の持ち主で、周囲の友人だけでなく親の手にも余る性格であったと言われています。

鋭い感受性と思い込みの激しさを持て余していた村上でしたが、

そんな彼の心の拠り所はランボー、ボードレールなどの実存主義文学でした。

青春の美しさを高らかに謳った詩や小説を村上は10代から何度も繰り返し読みあさり、自身も数多くの詩の秀作を残しています。
詩作と同時に折にふれて絵を描いていた村上ですが、18歳を迎えた1914年、

日本美術院の二科展に入選し、画家としての道を歩み始めます。

その後、『カンナと少女』、『乞食と女』、『樹木』、『自画像』、『九十九里の浜』、

『大島風景』など驚異的なスピードで作品を制作し、数々の展覧会に入賞、一躍時代の寵児となります。

 

しかし、不摂生な生活と失恋によるショックなどで心身ともに弱っていた1919年、村上はスペイン風邪に罹患します。

病床で生死の境をさまよっていた中、2月19日の夜に急に外に飛び出し、その数時間後に嵐の中で発見された村上は、

失恋した女性の名前をしきりにつぶやき、すでに瀕死の状態でした。

当時の医療技術ではスペイン風邪の治療は難しく、村山槐多は22歳の若さで夭折します。

村上の死後、1920年には詩集『槐多の歌へる』が、その翌年の21年には『槐多の歌へる其後』 が出版され、

豊穣なイメージを展開する自在なうたいくちが高村光太郎らに激賞されました。

また1921年には画集『槐多画集』が出版されます。村上の絵画は洗練された構図や技術こそないものの、

荒々しい筆致と原色のアクセントが印象的な村上の作品は見る者に緊張感を与え、吸い込まれるような独特の雰囲気があります。

村山がこの世を去ってから100年近くが経とうとしていますが、今なお現代の私たちの心を打つものがあります。

 

ひるねこ堂では村山槐多の作品を高価買取しております。
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