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高価買取作家

宮本三郎

1905年 石川県能小松市で生まれる
1922年 上京 川端画学校洋画部で藤島武二に師事
1927年 二科展にて「白き壺の花」が初入選
1940年 陸軍省嘱託として小磯良平等と共に中国へ従軍する
1943年 「山下、パーシバル両司令官会見図」で帝国美術院賞を受賞する 「海軍落下傘部隊メナド奇襲」朝日賞を受賞する
1946年 金沢美術工芸専門学校講師に就任する
1947年 熊谷守一・黒田重太郎らと第二紀会を結成する
1966年 芸術院会員になる
1971年 金沢美術工芸大学名誉教授に就任する
1974年 69歳で死去

 

宮本三郎は、写実の奇才”“色彩の魔術師”と評された日本の画家です。
数々の作品を残し、69歳までの生涯現役で画家人生を貫いていきました。

宮本三郎に特徴はその作風の移り変わりの多さにあります。

まず、従軍画家としてリアリズムな作品を描かなくていけない状況の時代であれば

「山下、パーシバル両司令官会見図」などの名作を残しています。

はたや、荒々しいフォービスム的な作品を描いていたりと、本当にマルチな画風を持った天才画家といえるのです。

晩年には的確な写実のうえに華麗な色彩をもった舞妓、裸婦の連作を制作して注目されました。

 

そして宮本三郎を語るのであれば、その類い稀なるデッサン力にあるのではないでしょうか。

あのデッサンの神、と呼ばれていた安井曽太郎でさえも一目置いていた程であったといいます。

風景画であったり、動物などを描く作品も数多く描いた宮本三郎ですが人物、特に裸婦を描くことに没頭していきます。

人間との対決は絵画でも永遠なこと、と語る宮本三郎は心血を注ぎ、自らの生涯に人間を描き続ける道を選択しているのです。

 

自らの作品をストイックに描き続けるだけでなく、教育という観点からも日本の美術界に貢献してます。

戦後は二科会の役割は終わったとして同会を離れ、同志と二紀会を結成、その中心的存在となって会の運営にあたりました。

東京教育大学の非常勤講師や金沢美術工芸大学の名誉教授など歴任し、数々の功績を残しています。

また、雑誌の挿絵や新聞小説の挿絵などマルチな活動を繰り広げていたことでも有名です。

獅子文六作『南の風』(朝日新聞連載)、石川達三作『風そよぐ葦』(毎日新聞連載)

などの挿画を担当し、広く読者に親しまれました。
国立霞ヶ丘陸上競技場の壁画や切手の原画などで知られ、晩年には木版画の作品も手がけています。

 

ひるねこ堂では宮本三郎の作品を高価買取しております。
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