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高価買取作家

佐伯祐三

1898年 大阪市北区中津二丁目で生まれる(幼名:秀丸)

1915年 赤松麟作の洋画塾に学ぶ

1917年 川端画学校に入門し、藤島武二に師事

    本郷洋画研究所で岡田三郎助に学ぶ

1918年 東京美術学校西洋画科に入学する

1923年 東京美術学校西洋画科を卒業する

1924年 渡欧

1925年 サロン・ドートンヌ「コルドヌリ」入選

    里見勝蔵・前田寛治・小島善太郎・木下孝則と「1930年協会」を結成する

1926年 帰国

1927年 渡欧

1928年 30歳で死去

 

佐伯祐三は画家としての短い活動期間の大部分をパリで過ごし、その作品はパリの街角、店先などを独特の荒々しいタッチで描いたものが多いです。佐伯の風景画にはモチーフとして文字の登場するものが多く、街角のポスター、看板等の文字を造形要素の一部として取り入れている点が特色です。作品の大半は都市風景だが、人物画、静物画等もあります。

 

油絵に興味を持ち、中学校在学中に赤松麟作の画塾に通います。その後、現代の東京芸術大学の前身である東京美術学校に入学。

1922年、中村彝の《エロシェンコ氏の像》に感動し、その作風を介して、翌年の卒業制作《自画像》《裸婦》などルノワール調の作品を描きました。

卒業後、単身パリに渡り、代表作のほとんどをパリで制作します。 佐伯祐三の作風は「内面の告白」に集約され、鋭い感受性で自己の内面を徹底的に描いたその作品は観る者を圧倒します。

『ガス灯と広告』、『郵便配達夫』、『ロシアの少女』、『モランの寺』などの代表作は晩年のゴッホやユトリロを思わせる激しいタッチで描かれており、決して他人を追従しない徹底した自己批評の精神が窺えるでしょう。

 

しかし、東京美術学校時代の佐伯祐三はどちらかと言えば穏やかな筆致の作風でした。 その作風、芸術観が決定的に変わったのは渡仏直後のことで、巨匠ヴラマンクを訪ねた佐伯は大きなショックを受けます。 佐伯が持参した作品の『裸婦』を見たヴラマンクは火がついたように怒り、「このアカデミズムめ!」「絵画から生命感を感じない!」「他人の真似をするなら絵など描くな!」と罵詈雑言を浴びせかけます。

ヴラマンクは独学で絵画を学んでおり、赤や青などの原色を荒々しく使うフォーヴィスム(野獣派)の大家でもありました。 また、それと同時に、絵画を通じて常に自分との戦いを繰り広げたゴッホをヴラマンクは心の底から尊敬していました。

一方、佐伯は洋画家にとって憧れの地であるパリに足を踏み入れた、いわば地方の「お上りさん」で、個性を何よりも尊重するヴラマンクにとってはそれが我慢ならなかったのでしょう。 初めは画家の本場パリの街を浮き立つ足取りで闊歩する佐伯でしたが、その出来事で大きなショックを受けた佐伯は作風を劇的に変化させます。

 

代表作の一つである『立てる自画像』では、自画像の顔の部分が佐伯自身の手によって無残にもナイフで削り取られています。 その頃の佐伯の痛ましいまでのショックと、自分自身の内面を告白し、新しい芸術を創るという決意がありありと見て取れます。

その後も佐伯は自己批評と革新の色が見られる作品を多く制作しますが、持病の結核が悪化し、わずか30歳でパリの地で夭折します。「黄色いレストラン」が屋外で描いた最後の作品で「描ききった」と家族に説明していたといいます。

 

佐伯祐三の死後80年以上経った今日でも、その人気は全く衰えません。 佐伯の作品が私たちを惹きつけて止まないのは作品の完成度の高さだけでなく、何度も自己超克を繰り返し、常に自分自身を向き合い続けた佐伯の人間性に共感できるからでもあるでしょう。

現在、佐伯の作品は大阪市立近代美術館建設準備室50点、和歌山県立近代美術館14点など、日本各地の34か所に所蔵されています。

 

ひるねこ堂では佐伯祐三の作品を高価買取しております。

関西圏(兵庫・大阪・京都・奈良・和歌山)を中心に、全国各地(北海道・東北地方・関東地方・中部地方・中国地方・近畿地方・四国地方・九州地方)のご依頼に対応しております。

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