高価買取作家
黒田清輝
1866年 鹿児島県鹿児島市東千石町に生まれる(本名:きよてる)(通称:新太郎)
1878年 細田季治に師事 鉛筆画や水彩画を学ぶ
1884年 渡仏
1886年 ラファエル・コランに師事
1891年 「読書」フランスの展覧会で入賞する
1893年 「朝妝」フランスの展覧会で入賞する
帰国
1894年 久米桂一郎と共に洋画研究所天心道場を開設する
1898年 東京美術学校の教授に就任する
1920年 貴族院議員に就任する
1924年 59歳で死去
黒田清輝は、近代日本の美術に大きな足跡を残した画家であり、教育者であり、美術行政家です。
特に明治中期の洋画界を革新していった功績は大きく、その影響は、広く文芸界全般におよびました。
27歳の時に9年もの期間を使いフランスでの絵画留学をしており、技術にさらに磨きをかけて帰国しています。東京美術学校教授や帝国美術院院長も歴任しており、日本の美術界にも貢献しています。
日本美術界の重鎮として名を馳せている黒田清輝の作品は、変化する光りと大気の様をかき分けるような外光派の作品を描く画家です。
バルビゾン派風の作品が主に多く、黒田清輝の描く作品はその才能あふれる色彩感覚と秩序だった繊細さで、見るもの全ての心を虜にしていきます。
裸体画の大作である『朝妝』(焼失)は、黒田がパリを去る直前の1893年に制作されました。
この作品はパリのサロン・ナショナル・デ・ボザールに出品して好評を得、日本では1894年の第6回明治美術会に出品されました。
しかし当時の日本では裸体画は芸術ではなくわいせつ物であるという認識があったため、1895年の第4回内国勧業博覧会(京都)ではこの作品の出展の可否をめぐって論争となり、社会的問題にまで発展しました。
人体への写実に隠される真実を描き続ける大切さを訴え続けた黒田清輝の作品は、様々な場所で大きな物議をおこし、結果的には洋画家壇の大家として美術界の先頭を走り続けるのです。
アカデミックな西洋絵画の制作過程や本質を伝え続けたかった黒田清輝の心いきは、芸術家を目指す若い画家達にも未だ感銘を与え続けています。
そんな黒田の作品で特に見るものに印象を与えるであろう作品は、1899年に発表された「智・感・情」です。
この作品は等身大の日本人女性を3名を描いた力作です。裸婦画として描かれたこの作品ですが、等身大というインパクトに加え、その功名で写実性の高い技術で、まるで本物の女性かと見まごう視覚的錯覚までも呼び起こす作品です。
小金色に彩られた背景に浮かび上がるように立つ3人の女性の姿は、まさに作品タイトルのごとくバランスが取れながらも、似て非な作風で描かれているような雰囲気も感じることができます。
美術家としては、既に名声を手に入れた黒田清輝ですが、1920年にその功績や実績も加味され、第5回貴族院子爵議員互選選挙に出馬、そして当選し1920年に貴族院議員に就任しています。
様々な功績を日本に与え続けた黒田清輝ですが、その地位に甘んずることなく、生涯現役で居続けたその制作姿勢は本物の芸術家としての“姿”を我々に伝えているような気もしてしまうのです。
日本近代洋画の父ともいわれる黒田清輝は、没する際、遺産の一部を美術の奨励事業に役立てるよう遺言しました。
これをうけて1928年に黒田記念館が竣工しました。館内には、遺族から寄贈された遺作を展示して画家を顕彰するために黒田記念室が設けられています。
また1930年には、同館に美術に関する学術的調査研究と研究資料の収集を目的として、現在の東京文化財研究所の前身である美術研究所が設置され、日本・東洋美術に関する調査研究業務が行われてきました。
ひるねこ堂では黒田清輝の作品を高価買取しております。
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