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高価買取作家

鹿子木孟郎

1874 岡山に生まれる

1892 不同舎に入学

1900 不同舎の学友たちと渡米

1901 アメリカからパリへ移る

1904 帰国(以後、2回渡仏)

1908 関西美術院長となる

1918 京都下鴨にアカデミー鹿子木下鴨家塾を開設する

1941 京都で死去

 

鹿子木孟郎は肖像画を得意とした洋画家です。

 

14歳のときに松原三五郎の画塾「天彩学舎」に入学。

早くから才能が開花され、水彩の「野菜」などが残されています。その後東京に遊学して雑誌社に勤務して画業に励んでいましたが、病気にかかり、やむなく帰郷しました。

岡山に帰って、中学校予備校の教員になりましたが、肖像画家として旅行をするため、予備校の職も辞して、家族の応援を得て、肖像画家として絵画の研鑽をしながら、肖像画を売ってそのお金でもう一度東京に遊学する資金をつくりました。

長兄の勧めから小山正太郎の指導する不同舎に学びました。このときの彼の作品は当時の画家の意外な行動範囲や明治の東京の姿を知る上で貴重な資料となっています。

「ショールをまとえる婦人」などがそのころの作品です。特にこの絵は、近づいて見ると平坦な塗りなのに離れて見ると絵が浮き上がって立体感が出ます。影が不明瞭な感じでも、全体の色調とバランスはくずさない画風であります。

 

20歳のとき、文部省の洋画家検定試験を受けて首席で合格し、中等教員図画科免許状をもらいます。長兄がこのころ亡くなり、父も早くに亡くしている彼の肩には家族を養わなければならない責任がかかりました。

滋賀県の中学校助教諭を経て、三重県津市の教員に赴任。後輩に赤松麟作がいます。

鹿子木孟郎は3回フランス留学をしており、アメリカ、ジブラルタル、シべリア、マルセイユなど、各国を周り、研鑽を積みました。フランス留学では、フランス最後の歴史画家といわれた老巨匠ジャン=ポール・ローランスに師事し、アカデミックな写実技法と画面構成を身につけ、自分の画風を築いていきました。

このような画系は、おのずから鹿子木に保守的な立場を取らせ、アカデミックな絵画研究に根ざした日本的な油彩画の創造を主張させることになりました。

こうしたことから、従来鹿子木は守旧派の中心画家と目されてきましたが、近年では、19世紀末から今世紀初頭にかけてパリに留学した画家に共通する、民族主義に根ざした象徴主義と外光表現の併存する折衷様式やボヘミアン的な性格など、鹿子木芸術における多用な性格が指摘されています。

 

彼の習作の「津の停車場」は、日本が近代化に沸く明治30年代のころの現実があります。駅舎や鉄道を主題に扱った最初のころの作の一因になったからです。

彼が新妻を写生した場所は「駅舎」であるという背景に日清戦争と日露戦争の間の近代日本の姿が隠れていることも事実であります。

フランス帰国後は、京都に居を構え、制作活動と京都高等工芸学校、画塾「アカデミー鹿子木」で津田青楓、吉田初三郎、斎藤与里、黒田重太郎、安井曾太郎など多くの後進を指導しました。亡くなるまで関西美術院長や帝展の審査員をつとめました。

 

 

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