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北川民次

1894年 静岡県榛原郡に生まれる

1910年 県立静岡商業学校を卒業する

    早稲田大学に入学する

1913年 渡米

1914年 ニューヨークのアート・ステューデンツ・リーグに入る

    ジョン・スローンに師事

1923年 サンカルロス美術学校に入学する

1924年 チュルブスコ村の旧僧院で画学生の一員となる

    リベラ、オロスコ、シケイロスらと交際

1931年 タスコに移した野外美術学校の校長となる

1937年 豊島区長崎仲町に転居

二科展「メキシコタスコの祭日」「銀鉱の内部」「悲しき日」「メキシコの三人娘」「瀬戸の工場」出品

    日動画廊第1回目の個展「メキシコ作品展」開催

1949年 名古屋動物園美術学校を開設する

1951年 名古屋市東山に北川児童美術研究所を設立する

1964年 現代日本美術展出品作「哺育」優秀賞を受賞する

1989年 97歳で死去

 

洋画家・北川民次は特特なデフォルメによる生命感あふれる作風で知られています。また、はやくから児童美術教育のすぐれた実践者でもありました。

 

1914年に早稲田大学を中退、渡米し、ニューヨークの地で舞台制作職人として働きます。職人として働く傍らスローンという人物の指導を受け、絵画制作の基礎を身につけます。

同時期に国吉康雄もアート・スチューデンツ・ギャラリーに在籍しており、彼とは学友でありました。

ニューヨークで学んでいた北川民次ですが、当時のアメリカ芸術に絶望してしまいます。

そして、アメリカを放浪、キューバを経て、1921年にメキシコに移り住みます。当時のメキシコでは大壁画運動の真っただ中であり、美術を民衆のものにすることを目指した活動が多く見られるようになっていました。

主に児童に対する美術教育の熱が高まっていた時期と、メキシコ移住の時期が重なったことは北川民治にとっては幸運なことであったといえるでしょう。

メキシコ在住時に、北川自身が壁画制作に携わることはありませんでしたが、美術学校の校長を任せられ、児童美術教育に専念することになります。

 

余談ですが、北川は、日本の児童美術教育にも大きな影響を与えました。1957年に児童美術研究所を設立するなど、日本での美術教育活動も現在では高く評価されています。

 

メキシコ市郊外トラルパンの野外美術学校、タスコでの児童美術教育を10年間行なった北川は、1936年に帰国します。

メキシコの題材を扱い、壁画的であり、大胆な作風の作品を立て続けに発表していきます。

「メキシコの画家」として認知されていった北川は、二科会の会員となり、日本の地で画家としての地位を獲得していきます。

戦前は、二科展の他、聖戦美術展、紀元二千六百年奉祝美術展、新文展にも出品しました。

戦後は、二科展をはじめ、美術団体連合展、日本国際美術展、現代日本美術展、国際具象美術展、国際形象展、太陽展などに制作発表を行いました。

 

また、第二次大戦中に瀬戸に移り住んだ北川は、窯業の盛んな瀬戸の街、そして瀬戸で働く人々を愛し、彼の作品にはそれらがたくさん描かれています。

その間、独自のデフォルメによる原始的な生命感の横溢する作風を展開し、1960年代からは色彩の上で一転し、それ以前のいわゆる「灰色の時代」から鮮烈な原色の明るさを増しました。

現在、愛知県瀬戸市には北川のアトリエが残っており、年に1、2回、一般向けに公開しています。工場跡を再利用したアトリエは、土地の雰囲気を出しており、一見の価値があるでしょう。

 

『北川民次画集』のほか、『絵を描く子供たち』、『子供の絵と教育』、『メキシコの誘惑』などの著書があります。

 

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