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倉田白羊

1881年 埼玉県さいたま市浦和区に生まれる(本名:重吉)

1894年 洋画家・浅井忠の門下生となる

1898年 東京美術学校に入学する

1901年 首席で卒業する

1907年 第一回文部省美術展覧会にて「つゆはれ」が入選を果たす

    山本鼎・石井柏亭・森田恒友らと美術文芸雑誌「方寸」に参加する

「パンの会」に参加する

1912年 「川のふち」が夏目漱石の美術批評に取り上げられ評判も上がる

1922年 長野県上田市に移住する

1938年 58歳で死去

 

倉田白羊は、はつらつとした木や草、 晴れ渡った青空など、なにげない自然をモデルにした作品を多く発表し、初期文展に入選を重ねた日本の洋画家です。

 

彼には弟次郎という10歳ほど上の兄がおり、浅井忠に師事し画家を目指していました。しかし、明治美術界会員として歩み初めだした矢先に23歳という若さでこの世を去ってしまいます。

その兄の意志を次ぐために、倉田白羊は自身も浅井忠に師事し、結果その後、太平羊美術会、明治美術会、文展、院展羊画部など活動の幅を広げて行っています。

1902年、太平洋画会に参加し、作品を発表するかたわら、中央新聞社を経て時事新報社に勤務し、カットや美術展評などの仕事を行っていました。またこの頃から、「白羊」の雅号を用いるようになりました。

 

彼は何ものも振り落とすまいとおう姿勢があり、なにげない風景をはつらつと明るく爽快に描いていた事でも知られています。

そんな倉田白宏のこだわり抜いた姿勢で描かれた作品といえば「たき火」や「たそがれ」です。正確な構図に基づいて描かれているこの作品は、まさに彼のもつ実直さに温和な性格と、何事も正確に掴み取るその写実力が垣間みることができるのです。

これを描いた時代は、丁度世界恐慌の波を受けていた時代であり、その流れと共に倉田白羊が当時移住をした長野県の上田市も例外ではありませんでした。

農村といえど、厳しい貧困状態に脅かされる世界恐慌から住民達を守るべく、倉田白羊は経済的にも支援をしようと、奮闘していました。

そして、そんな思いの最中描かれたこの作品なのですが「たき火」に至っては、彼の作品の中でも1番・2番を争う評価を受ける名作です。

その大きさは210cm×275cmと非常に大きく、見るもの全てを絵の世界観に引きずりこむような迫力とクオリティを感じ取ることができるのです。

さらに、失明の危険と不安がある身体状況の中書き上げられたという、超大作です。この作品を機に信州在住の美術家たちを洋画講習会などを開き、指導していっては美術界の若手の育成に大いに貢献していたのです。

 

彼の作品に一貫していえることは、現場での風景写生による克明な写実への努力であったといわれ、大地に足をつけ地道に生きる人々やその風景の広がりを暖かい目で捉えています。

この世を去るまで、信州の風景を題材に、写実を重視した作品を春陽会に発表し続けました。

 

 

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