高価買取作家
靉光
1907年 広島県山県郡壬生町に生まれる 本名、石村日郎
1924年 大阪に出て天彩画塾に学び画家を志す。「靉川光郎」と称した
1926年 二科展初入選を果たす
1929年 グループ洪原会を結成する
1938年 第8回独立美術展に「眼のある風景」を出品し、独立美術協会賞を受賞する
1939年 福沢一郎らと「美術文化協会」を設立する
1943年 新人画会の結成に参加し、主要メンバーとして活躍する
1946年 上海で38歳で戦死
靉光(あいみつ)は大阪の天彩画塾や東京の太平洋画会研究所で学び、シュールレアリズム風や宋元画風など、特異な画風で知られる昭和前期の洋画家です。始め靉川光郎と名乗るが、のち略して靉光(あいみつ)と名乗りました。
幼少のころから画才を示したといわれている靉光は、大阪の画塾を経て、18歳で上京、太平洋画会へ。そこで学びながら、さまざまなタッチ、画風の作品を多く残しています。写実的な画風から、印象派の作品、後のシュルレアル的な作品まで、非常に幅が広く、しかもどの作品も高い水準にありました。
しかし、彼自身は納得することがなかったそうです。上京した昭和初年から10年の期間、彼の作品はさまざまなバラエティーに富んでいます。代表作のひとつである『編み物をする女』では溶かしたロウやグアッシュを使うなど、さまざまな技法も試しています。そして、10年あまりの苦悶の後、彼がたどり着いたのが代表作『ライオン』の連作、『眼のある風景』などの極度に内面化した作品群でした。シュルレアルの影響を多分に受けながら、中国の宋画・元画の影響も見られます。写実的絵画から、自己の内面下で再構築した「現実」を描き出そうとる絵画への転換。自己に厳しく問いかけるため、作品には大きな喜びがある反面、大きな産みの苦しみがあったに違いありません。
絵画表現の可能性に対する不安と期待は、戦争に突き進む時代が孕んでいた不安と期待をそのまま反映したものだったのかもしれません。時代が戦争へと突き進み始め、戦意高揚のため戦争画を描く事を当局より迫られ『わしにゃあ、戦争画は(よう)描けん。どがあしたら、ええんかい』と泣くように言い、彼はひたすら自画像に専心したそうです。それは戦争に対する静かな否定であったのでしょう。しかし、昭和19年、彼はその否定し続けた戦争に召集され大陸へ。そして、終戦を大陸で迎えたものの帰国を果たすことなく上海で病床につき、不帰の人となりました。描きたいものを極めようと魂を削り、戦争を否定し、否定した戦争に死んだ靉光。靉光の死後、作品が日本人の油彩表現として一つの到達点を示したとして評価を高めましたが、生前に多くの作品を破棄した上、残された作品も原爆で失われたことからその数は非常に少ないです。
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