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ギュスタフ・クリムト

1862年 オーストリアのウィーン郊外のバウムガルテンに生まれる

1876年 奨学金を受け、ウィーン美術工芸学校に入学

1879年 17歳にしてオーストリア皇帝の銀行式の祝祭行列の計画に参加する

1892年 進歩的な芸術家たちと知り合い、保守的なウィーン美術に反発するようになる

1894年 オーストリア政府からウィーン大学の天井画の製作を依頼を受けるが、伝統を逸した作品だった為激しく非難される

1897年 ウィーン分離派という反体制的芸術家集団を結成する

1903年 イタリアでビザンツ美術に触れて以降、金色を大胆に使う作風を確立

1905年 数名の仲間と共にウィーン分離派を離脱する

1906年 オーストリア芸術家同盟を設立する

1918年 56歳で死去

 

ギュスタフ・クリムトは、19世紀末から20世紀かけて活躍したユーゲントシュティール(象徴主義)を代表するウィーン分離派の画家です。

黄金色を多用した豪華で装飾的な画面構成と、明確な輪郭線を用いた対象描写、平面的な空間表現などと、人物の顔や身体での写実的描写を混合させた独自の絵画表現で19世紀末の美術界を席巻し一世を風靡しました。

装飾を巧みに扱いったその絵は、見る者を別世界へと誘います。この装飾性は、日本の尾形光琳の影響も指摘されており、洋画としては類まれなものです。

 

クリムトは、7人兄弟の二番目として、彫金師の父のもとに生まれました。14歳のときに王立工芸美術学校に入学し、その才能を発揮させます。在学中より建築装飾の仕事をし、26歳のときには劇場の天井の装飾画で皇帝から勲章を授与されるなど、若くして成功を手にしました。

 

その後、「哲学」、「医学」「法学」をテーマにした3つの天井画を手掛けるが、妊婦や裸体を描くなど、当時の絵画界の常識とはあまりにもかけ離れた内容であったために、大変な批評を受けることとなりました。これを機に、以後クリムトは、絵画において独自の世界を切り拓くことになります。

「分離派」と呼ばれる反体制的芸術家集団の会長に就任し、それまでになかった新しい画風をつくりあげていきます。そして同じような意欲を抱いた若き画家たちに、援助することを惜しみませんでした。

「死」と「エロス」を敏感に感じ取っていた若きエゴン・シーレは、彼の見出した才能の一人です。クリムトとシーレに共通するのは、かたちは違えど「死=タナトス」の香りです。そして素描を見るとわかるが、人の身体を描く輪郭線が、シンプルなのに驚くほどよく肉感を捉えていることです。

 

クリムトの絵画の特徴と言えば、写実的な人物に平面的な金色をあしらい、多種多様の文様を散りばめることで、見る者を夢現の異次元の世界へ引き込むところにあります。

その、クリムトの黄金期の代表となる作品であり、洋画における地位を確立したのが「接吻」です。 画面にはうっとりとした表情をうかべた女性がひざまずき、男性と抱き合っている。

二人を包むのは金色の光であり、男性の側には黒と白の不規則な格子の文様が、女性の側には赤や青の花のような文様が施されていて、画面を引き締めています。二人の立つ場所は、緑の崖とおぼしき場所で、ピンクや青の花がびっしりと咲き乱れており、華やかな幸福と、それでいて不安な、危うい感じを漂わせています。 クリムトの絵画には、常に愛だけではなく死を、幸福だけではなく不安を感じさせる両面性があります。

 

晩年には、色彩に新たな道を求め、スラブ的な民族美術や中国趣味など東洋的表現を取り入れながら自身の様式を変化させました。

 

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