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高価買取作家

小絲源太郎

1887年 東京都台東区で生まれる

1904年 藤島武二の指導する白馬会駒込研究所でデッサンを学ぶ

1910年 文展に入選する

1911年  東京美術学校金工科を卒業する

1954年 日本芸術院賞を受賞する

1959年 日本芸術院の会員になる

1965年 文化勲章を受章する

1978年 91歳で死去

 

洋画家・小絲源太郎は、官展系としてはまれにみる新鮮な情感と彩調の風景画家として知られました。本名は小糸源太郎と言います。

 

17歳のときに白馬会の展覧会で、藤島武二の「蝶」に魅せられて、画家になろうと思ったそうです。東京美術学校西洋画科を志望しましたが金工科に入学、在学中、第4回文展に「魚河岸」が初入選し黒田清輝に認められ西洋画科への転科を勧められました。金工科を卒業後改めて西洋画科に入学しましたが、病気休学後そのまま中退しました。

学生のときから文展、光風会展に出品します。最初は印象主義でありましたが、暗い細密描写に変わって静物画を中心に描いていました。

930年から2年続けて帝展で特選になり、後、審査員になります。次第に写実的で穏健な画風となり、明快で強い画風に変えてから、より評価されるようになりました。

晩年には簡潔な形態と色彩のはっきりした画面によって独自の画風を作りました。日本芸術院会員にもなり、文化勲章も受けました。

金沢美術工芸大学教授、東京芸術大学教授を務めるなど、91歳で亡くなるまで、日本洋画壇の中心人物でした。

 

小絲源太郎は熱しやすい人だったのかもしれません。彼が1918年第12回文展初日に誤解からか、自作を破る事件を起こしたとあります。文展に出品する絵をいくら腹が立ったからと、産みの苦しみの末に生んだ子供のような作品を破るとは、なかなか普通ではできません。そして、1925年までの間、活動すら自粛したそうです。なんと、あれだけ没頭した絵を休止に近い形で自粛するとは、大変な決断だと思います。

 

そして、この時代の洋画家たちが1度はヨーロッパに憧れ、勉強するために留学することが多い中で、小絲源太郎は日本で絵を描くことにこだわり続けました。しかし、俳句の達人でもある小絲源太郎は、日本の季節感に魅せられて、詩情にあふれた日本人だけにしか描くことのできない作品を残したことによっていまだに高い評価を得ています。

新しいスタイルの画風や芸術運動が続々と日本に押し寄せている中に、日本の地に根ざした油絵の表現に円熟味のある画風を記した点は独自性があり、確固たる地位を築いた小絲源太郎の真髄であります。

特に、1953年に描かれた「春雪」は、小絲源太郎の代表作で、田園調布駅前の並木路を描いています。明快で強い画風で描かれた雪曇りの雰囲気を伝えている作品で、藤島武二の考え方を継承しています。情緒的な日本の風土や風物を見事に表現した作品であると言えます。

随筆も好み『冬の虹』や、『風神雷神』などを刊行しています。

 

ひるねこ堂では小絲源太郎の作品を高価買取しております。

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